国歌斉唱 in バンコク

何年か前に、国歌斉唱は義務なのか、強制させることは個人の権利侵害になるのかといった議論がありました。まだ問題になってるんでしょうか。大して興味がないので詳細は知りません。

 

さて、朝8時と夕方6時が私のタイで好きな時間です。この時間になると、公共施設(公園や駅など)ではスピーカーから軽快なラッパの音が聴こえてきます。カウントダウンのビープ音が響くと、国歌が流れます。国歌が終わるまでの約1分間、市民はその場に停止しなければなりません。警官が常駐している公園では、警官が笛を鳴らし、寝ている市民は起立させられますし、ランナーは止められます。

 

初めてこの光景を見た日本人は皆、少なからず緊張するはずです。独裁国家のような匂いがし、さっきまで当たり前に享受していた自由がこのひと時は権力に押さえつけられているような気分がします。

 

しかし慣れてくると、この光景がなかなか良いものに思えてくるのです。その一時だけ、皆がタイという国に思いを馳せる。喧騒が一瞬止まる。国歌が終わると皆なんとなくお辞儀をして、生活に戻っていく。このシークエンスがたまらなく美しく見えてきます。

 

タイに旅行に来る人には、是非夕方18時に公園に行ってみるよう勧めています。日中の殺人的な日差しが西日に変わり、涼しい風が吹くこの時間帯の国歌斉唱は格別の風情があります。止まらなかったら撃たれたり逮捕されるわけでもないし、頭を掻いている人やケータイを見ている人もいます。下に貼ったように動画を撮っても怒られはしません(露骨に警官の目前でやったらダメでしょうが)。

 

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楽しいムーミン一家 ニンニの物語から考える虐待 (第9話 姿の見えないお友達 / 第10話 笑顔がもどったニンニ

物心ついた頃から「楽しいムーミン一家」を観て育ちました。学生時代にふとしたきっかけで再度観る機会があり、両親は素晴らしい作品を見せてくれていたのだなと感じ入ったのを覚えています。先日また観直す機会があったので改めて感想を記します。
 
この連続する2話では、「皮肉屋の叔母さんに育てられて姿が見えなくなってしまった」女の子、ニンニが登場します。これは虐待によって傷を負った子どもが回復していく物語であるということを、今更ながら発見しました。幼少期はもちろん、学生時代に観たときはそのような問題意識がなかったのでしょう。
 
「皮肉」というマルトリートメントと、「姿が見えない」という傷の負い方
ニンニをムーミン家に連れて来るのはトゥーティッキです。トゥーティッキの位置づけはちょっと良く分かりません。それほど重要ではないのでしょう。その叔母さんと何らかの親交がある善良な市民、とでもしておきましょう。ことの次第を皆に説明すると、「皮肉って何?」とムーミンから質問されます。
 
トゥーティッキ「例えばムーミンが遊んでいて花瓶を割ってしまったら、ママはどうする?」
ムーミン「そりゃ怒られるさ。次は気をつけなさいとかなんとか」
トゥーティッキ「そうね、それが当たり前ね。でもその叔母さんはこう言うの。『ダンスが下手だからって、花瓶に当たることはないじゃない』って」
ムーミン「なんてイヤな言い方なんだ!」

  

なんてイヤな言い方なんでしょうね。表現が柔らかいので(特に子どもは)そう感じます。子育てをしている今、この言葉は暴力だということが分かります。「ダンスが下手だ」という烙印を親に押されることがどんなに彼女にとって嫌なことか。しかも「花瓶を割った」という、ただでさえ自分が悪いことをしてしまって落ち込んでいるときに、その言葉を浴びせられるのです。反撃の余地がありません。花瓶を割ってしまったダメな自分、しかもダンスが下手な自分。二重の自己否定を食らうわけです。これはマルトリートメントの一形態です。マルトリートメントというのは広義の虐待を指す言葉で、最近、子どもの脳を傷つける親たち (NHK出版新書 523) | 友田 明美という本で知りました。
会話は続きます。
 
ミイ「それで、ニンニはその叔母さんに嚙みついてやったの?」
トゥーティッキ「いいえ。でも段々姿が見えなくなってしまったの。声もよ。」

 

ミイのボケ的な質問でシリアスになりすぎないようにされていますが、相当に重いシーンだと感じました。子どもの内面から発せられるあの輝かしい光が徐々に弱々しくなり、最後に消えてしまう、そんなイメージが浮かびます。また「消える」という言葉は、「死」すらも想起させます。

 
少しずつ、回復へ 
そのうちドアが空き、ニンニが入ってきます。ここでは宙に浮いた「鈴」しか見えません。皆は優しく迎え入れます。寝床へ連れて行くママが本当に優しい。「果物とジュースはここに置いておくわね。いつでもお食べなさい。」「もう寝るの。早いのね。疲れたものね。」「夜中どうしても寂しくなったら、私を起こしなさい。向かいの部屋にいるわ。枕元でこの鈴を鳴らすと良いわ。」ニンニは首に付けた鈴だけが見える状態で、その揺れ方でyes/noの判断は出来るけど、言葉も発せない。そんな状態でも、ムーミンママは他の子どもと同じように接します。トゥーティッキが「(ニンニを虐めた叔母さんと)正反対だもの」と述べる所以です。
 
翌朝、皆の優しさに触れたからか、靴が見えるようになります。喜ぶ皆。遊びに出かけ、キノコ摘みに興じていると、意地悪でいたずら好きのスティンキーに出くわします。コイツの悪役感、でも憎めないキャラクターはバイキンマン並みに完成されています。「怖くて姿が見えなくなったんだろう。可哀想に、そうなったら一生戻らないぞ」などとニンニを脅し立てます。ムーミン達が反論しながら守ろうとしますが、ニンニの靴はまた見えなくなってしまいます。
意気消沈して家に帰ると、ママが出迎えます。各人の摘んだキノコのカゴを検分し、一通りダメ出しした後で「このカゴは素晴らしいわ。毒キノコもないし、良いキノコだけを、しかも沢山摘んできている。あなたはとても賢くてお行儀が良いのね」とニンニをべた褒めします(本当にキノコ採りが上手なことが、スティンキーと遭遇する前に描写されています)。靴が再び現れ、ワンピースの裾まで見えるようになります。興奮する皆。「可愛い脚なのに地味な服を着るのねぇ」とママがぽつり。
皆が寝静まった夜中、パパが目を覚ますとママのベッドが空です。服を縫い上げているのです。
「もう遅いよ、ママ」パパの声色のなんと優しいこと。
「あぁ楽しかった。久しぶりに女の子の服を作ったわ」声を弾ませるママのなんと嬉しそうなこと。
母さんが夜なべして〜的な自己犠牲の精神ではなく、子どもを思う親の姿の美しさにただ心打たれます。
 
スティンキーという悪意

ママの作ったワンピースとリボンを着て、顔以外はすべて現れ、か細いながら声も出るようになりました。ムーミンたちと森でかくれんぼをして遊びます。このまま回復に向かうかと思いきやスティンキーの再登場。

"Stinky"という言葉の通り、とにかくこいつは嫌な奴なのです。ニンニを言葉巧みにおびき出し、洞穴に突き落として岩で出口を塞いでしまいます。作品を通して色んな回でスティンキーは悪さをしますが、おそらくこの回が最も残酷です。ちょっとやりすぎじゃないか、とさえ思います。一緒に見ていたウチの子どもは半泣きでした。

悲嘆にくれるニンニ。探し回るムーミンたち。洞穴の近くに来る。蚊の鳴くような声で助けを求めるニンニ。それに気づくムーミン。

 

 ニンニ「助けて・・・」

ムーミン「ん?今何か聞こえなかった?」

ニンニ「助けて・・・ムーミン」

ムーミン「助けてって聞こえる。おーい!ニンニ、どこだー!」

ニンニ(ムーミンが近くにいることに気づく)「ムーミン・・・!私はここよ・・・!」

ムーミン「どこだニンニ!声が小さくて聞こえないよ!」

ニンニ「私はここよ・・・!」

ムーミン「もっと大きく!」

ニンニ「私はここよ!」 

 

 

コール&レスポンスの末、とうとうニンニは腹の底から大声で助けを求めることができます。「私・・・こんな大きな声、生まれて初めて出した」と自分でも驚くほど大きな声です。その言葉が「私はここよ!」というのも素晴らしい。否定された自己、消えた姿と声。その状態から世界に向かって「私はここにいる!」と主張できるようになったのです。 無事ムーミンたちに助けられ、ムーミン家に帰るニンニ。まだ顔は見えません。でも、「それでもすごいじゃないか、大きな声も出たし、今度はスティンキーにいじめられても姿が消えることはなかったんだから。もう少しだよ。」とパパが鼓舞します。目に見えた成長だけでなくて、子どもが「できた」ことを認めてあげること。これが子どもには嬉しいし、安心できるんですね。一日たっても顔が見えるようにならなかったことを一番残念がっているのはニンニに決まっているんです。

 

笑顔を取り戻させたもの

皆で浜辺へ遊びに行きます。海を眺めて座っていたニンニがしくしく泣き出します。 

ママ「どうしたの、ニンニ?」

ニンニ「海があまりにも大きいから。」

 

 海があまりにも大きくて泣く、という表現に若干クサさを感じつつも、その次が面白い。今度はママが地平線を見やりながら黄昏ます。 

パパ「どうしたの、ママ?」

ママ「私には海を眺めて感動して泣いたり、心ときめいたりするようなことが随分なくなってしまったわ。」

 

 ボケ役でもあるパパはこれを「ママはドキドキするような体験をしたいらしい。よし、海に突き落としてあげよう」と超解釈します。後ろからそろりそろりと近づいていく。それに気づいたニンニは駆け出し、パパの尻尾に思い切り噛みつきます。

 ニンニ「ママに酷いことをしようなんて、許さない!」 

声を荒げて一喝すると、遂に顔が現れます。正義感と力強さに満ちたその表情には神々しさすら感じられます。顔が見えるようになったことを皆で喜びます。笑顔を取り戻させたのは、他者への愛と、愛する人のために行動する勇気だったのでした。ニンニとママが抱き合うシーンは涙なしには観られません。

 

エピローグ

 

元気になったニンニと会えてトゥーティッキも喜びます。例の叔母さんはまたニンニと住みたいと言っているようで、連れ戻しに来たのでした。ここは大人になった今では不安になるシーンです。また虐待が繰り返されるのではないか。でも、ここでは子どもへのメッセージだけを受け取ることにします。勇気と愛で顔を取り戻せたのだから、もう意地悪な叔母さんなんかには負けないぞ!ということです。それを象徴するように、帰り道で向こうからニヤニヤ歩いてくるスティンキーに向かって思いっきりアッカンベーをして、「フンッ」と去っていくのです。 

 

そうそう、ニンニを洞穴から救い出した後、怒ったムーミンたちはスティンキーを捕まえて洞穴にぶち込むのでした。

ムーミン「ニンニが受けた思いをお前も受けろ!」 

ちょっとやりすぎじゃないか、とここでも思いました。ウチの子も同じように半泣きでした。上で書いたように最後のシーンで何事もなく登場しているのでまあ何とか出られたんだろうということは分かりますが、勧善懲悪・因果応報といったイデオロギーが容赦なく描かれて地上波で放送されていたのはこの時代だからできたのでしょう。今じゃ「スティンキーがかわいそう!」という批判を受けることは想像に難くありません。良し悪しは別として。 

BTS(バンコクスカイトレイン)が死んでいます

25日(月)朝、いつものようにBTSに乗ると、ドアが閉まりません。どうやら先が詰まっているようです。たまにあることだ、5分くらいで出発するだろう、そのときはそう思いました。思った通り5分後に出発しましたが、次の駅でまた同じ状況に。その次の駅でも。乗り換え駅に着いた時には予定の30分遅れでした。

嫌な予感を持ちながら乗り換えると、今度はすぐドアが閉まりました。よかった、こっちの線は大丈夫だ、と思ったのも束の間、そのままの状態で一向に発車しません。

おいおい、まさか、マジかよ、発車しないならなぜドアを閉めた。エアコンは効いているけれど東京の満員電車に勝るとも劣らない乗車率。減っていく酸素。充満する匂い。誰だ朝からニンニク食べた奴は。マズい、クラクラする。イヤホンを外し、吊り革から手を外して腕を下げ、目を閉じて何とかそれをやり過ごす。

ようやく発車した。次の駅でたまらず降りる。案の定、ドアはすぐに閉まりそのまま停車を続ける。ベンチで風に当たりながら10分ほど待つと次の列車が来た。なんとか次の駅まで耐えられるだろう。この運転手・車掌はバカでないことを祈りながら乗り込む。よかった、ドアは閉まらない。

ついつい「だ・である」調になってしまいましたが、こうして月曜日はいつもの1時間遅れで会社に着きました。帰りの電車も遅延していたようですが、朝ほど酷くはなく、15分遅れほどで帰宅しました。この位は誤差の範囲内です。

ところが今朝も、列車に乗り込むと同じ現象が。一駅乗って、迂回ルートをとることにしました。といってもバイクタクシーに乗るという荒業で迂回でもなんでもありません。駅では「遅れています、申し訳ありません」のアナウンスが続くだけで、代替輸送手段を用意したり、乗車券の払い戻しなどの手続きをしたりするわけもありません。

ニュースにもなっているようです。金曜日までには解決するだろうとのこと。いやあと3日もあるんですけど。暗澹たる思いとはこのことです。

 

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(追記:水曜日朝には平常運転に戻りました。)

 

さて、今回久しぶりに満員電車に閉じ込められるという体験をしました。私は都内に通勤しており、年に何回かはこういうことがありましたが、バンコクに来てからは初めてです。改めて感じたのは、その圧倒的なストレスです。貧血を起こす女性や、パニック障害になったという知人の知人がいる程度で、自分自身は今まで「しんどい」以上のダメージを受けたことはありませんでした。

今回は「あ、気を抜いたらヤられる」というところまで行きました。これが仕事の疲れやストレスが溜まっている状態であればヤられていてもおかしくありません。「万全の状態でない」ことなんてむしろ通常でしょうし、「ちょっと調子悪い」ことだってしょっちゅうです。女性はそれが月一で来るわけです。そのタイミングでこんな状況になったらそりゃ倒れます。むしろ都内に通勤していたら毎日目撃していてもおかしくないんじゃないかとすら思います。実際にはそこまでではないので、大したものです(観測範囲の問題に過ぎないのかもしれませんが)。

 

p.s. ウィキペディアでトイレの落書きがありました。消してくれ。

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 (追記:こちらも水曜日朝に消されていました。)

児童相談所は人手不足か?ざっと計算してみる

1.子ども=15歳未満の統計です。児童相談所は17歳までを対象とするようですが、統計データがないので。これが分子。

 

2.県別に配置されている児童相談所、児童福祉司、児童心理司、スーパーバイザーの数は厚労省が公表しています。

 

児童福祉司が基本的に対応に当たり、スーパーバイザーが経験を積んだいわば児童福祉司の上級職。児童心理司は心理的な専門家(カウンセラー、心理療法士)。といったイメージで理解しました。これを合計して「子どもをサポートする大人」と考えて分母に持ってきます。

 

3.大人一人あたりがサポートする子どもの人数が多い順に並べると下表のようになります。合計すると1500万人の子どもを5千人の大人で支えていることになります。大人一人あたり3千人です。

 

4.全体としてどうかは置いておいて、今回問題の起きた東京を見てみると、確かにかなり上位に位置しています。一人あたり3800人強。一方の香川は3000人。この差が両児童相談所間の対応の差として「しょうがない」ものなのかどうか。ここでは「数」を議論しているので、目黒区の事件にフォーカスするのではなく、各県で起きた虐待数、それに対する児童相談所の対応数、その内残念な結果になってしまった件数、といったデータで分析すべきなのですが、数字に表れてこない虐待もあるでしょうから、ここではこれ以上突っ込みません。

 

5.子どもの人口が東京に次いで多いのは神奈川、大阪、愛知、埼玉、千葉と続きます。このうち千葉、大阪、神奈川は香川県よりも下位に位置します。全国平均より下です。千葉県は子育て世帯に優しく、神奈川県は冷たいという勝手なイメージがあったので意外でした。

 

  A(千人) B(人) C D E=B+C+D F=A/E
15歳未満人口 児童福祉士 児童心理司 スーパーバイザー 合計人員 一人あたり担当児童数
栃木 245 33 15 9 57 4,298
鹿児島 217 34 14 3 51 4,255
奈良 163 25 10 6 41 3,976
佐賀 113 17 9 3 29 3,897
宮崎 146 23 11 4 38 3,842
東京 1,542 244 107 51 402 3,836
岐阜 258 44 16 8 68 3,794
茨城 355 60 25 9 94 3,777
山形 130 21 11 3 35 3,714
福井 101 17 9 3 29 3,483
沖縄 247 47 13 11 71 3,479
愛媛 164 32 11 5 48 3,417
群馬 241 37 25 9 71 3,394
長崎 173 29 14 8 51 3,392
熊本 237 40 24 6 70 3,386
福島 220 42 17 6 65 3,385
富山 124 22 11 4 37 3,351
三重 226 40 21 7 68 3,324
埼玉 899 184 51 37 272 3,305
広島 368 69 28 16 113 3,257
福岡 675 126 51 32 209 3,230
静岡 464 79 47 19 145 3,200
愛知 1,010 210 65 42 317 3,186
山口 164 27 18 7 52 3,154
兵庫 692 130 71 22 223 3,103
香川 120 23 11 5 39 3,077
滋賀 200 36 19 11 66 3,030
新潟 265 60 17 11 88 3,011
北海道 588 118 61 22 201 2,925
長野 260 46 33 10 89 2,921
千葉 755 154 83 22 259 2,915
山梨 99 21 9 4 34 2,912
岩手 144 32 14 4 50 2,880
大分 143 26 18 6 50 2,860
岡山 243 47 30 10 87 2,793
宮城 280 49 43 12 104 2,692
石川 145 31 21 3 55 2,636
大阪 1,069 278 84 54 416 2,570
神奈川 1,122 284 106 53 443 2,533
秋田 101 22 14 4 40 2,525
徳島 85 21 10 4 35 2,429
和歌山 112 30 13 6 49 2,286
青森 141 39 19 9 67 2,104
京都 308 94 42 16 152 2,026
島根 85 22 15 6 43 1,977
鳥取 72 21 10 6 37 1,946
高知 80 29 13 10 52 1,538

 

 

データ出所

A:統計局 

https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2017np/index.html

 

B~D:厚生労働省

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000174777.pdf

 

厚生労働省もこういった統計情報はPDFではなく編集しやすい形で公表してくれないですかね。それとも探せばあるんだろうか。

骨太の方針における虐待防止策

目黒の事件を受けて、「親に対する厳罰化」と並んで叫ばれているのが「行政の権限強化」です。「児童相談所が悪い」という攻撃的な主張も散見されます。

 

www.asahi.com

 

他方で当然、擁護する主張もあります。

 

www.cyzowoman.com

 

職員は、権限があると同時に、それを濫用しないよう戒める必要もあると考えます。可能性があるからと全て保護していたのでは、子どもから“保護者を取り上げること”にもなるのです。職員たちが常にグレーゾーンで綱渡りをしている

 

反対に“児童相談所が救ってきた命もある”ことも事実です。

 

業務が集中しすぎていて機能不全を起こしているという指摘も。

blogos.com

 

リソース不足は以前から言われてきた問題です。

www.asahi.com

 

さて、6月15日に「骨太の方針」が閣議決定されました。

経済財政運営と改革の基本方針2018 - 内閣府

 

虐待について以下のように言及されています。冒頭の一文は今回の事件で追加されたのでは、と思ってしまいます。真剣に取り組んでもらいたいです。

子供の命が失われる痛ましい事件が繰り返されないよう、市町村、児童相談所の職員体制及び専門性の強化、適切な情報共有など地方自治体間等関係機関との連携体制の強化や適切な一時保護の実施などによる児童虐待防止対策、家庭養育優先原則に基づく特別養子縁組、里親養育支援体制の整備、児童養護施設等の小規模・地域分散化、職員配置基準の強化を含む高機能化及び家庭養育支援への機能転換などの社会的養育を迅速
かつ強力に推進する。

 

 

 

 

結愛ちゃん虐待死事件について考えたこと

犬山紙子さんの記事を読みました。この方のことはサブカル界隈の文筆家、程度の認識しかないのですが、この一文には自分の気持ちが代弁されているので引用します。

 

虐待のニュースって、今までは目をそらしていたんです。自分の心がすごく傷つくのがわかっていたからです。

ショックを受けて暗い気持ちになって1日中しんどくなるという不安がすごくありました。だから虐待のニュースに向き合わず、「悲しい」という感情だけで終わらせていました。

でも、今まで虐待を受けたと報じられた子どもたちに対して溜まっていた思いが、結愛ちゃんのニュースを知ったことで、コップから溢れてしまったんです。

悲しいけれど、しんどいけれど、今回はちゃんと向き合おう、と思いました。

 

www.buzzfeed.com

 

いざ直視すると、嫌になるほど根が深い問題です。

先日の記事でも書いたように、ホッテントリのブクマコメントを分析しており、「こうすべき」として対策を述べているコメントを眺めています。その中で目に付くのが「親権停止・公権力強化」です。その具体論について踏み込む前に、あるコメントに目が止まりました(先日言及したホッテントリとは別のホッテントリです)。

 

enderuku (´l□l`;)児童養護施設に入りやすくすればって思ったけど養護施設って女児への性的虐待事件が凄く多いんだなhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E9%A4%8A%E8%AD%B7%E6%96%BD%E8%A8%AD#%E9%81%8B%E5%96%B6%E4%BD%93%E5%88%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C 

2018/06/09 リンク Add Star

 

仮に親権停止するなりして子を親から引き剥がすことができたとして、じゃあその子をどこで育てていくのか、という問題が次に出てくると。そこでも目を覆いたくなる問題があると。

まだ少しずつしかこの問題に対する知識を深められていないのですが、詰まるところ解決すべき問題は「貧困」な気がしています。「社会的弱者」と言い換えてもいい。児童を虐待する親は社会的弱者であり、児童養護施設という存在自体もある種の社会的弱者と位置付けられてしまっているのではないかと感じています。児童養護施設で働くことが国民の尊敬を集めている、あるいは比較的高収入を得られるのであれば、問題って減っていくんじゃないかと思うんですよね。

 

 

「もうおねがい ゆるしてください」死亡した5歳女児のノート

www3.nhk.or.jp

 

昨日目にしたニュース。タイトルが視界に入っただけで、悲しみと怒りとやるせなさでどうかしそうだったので、本文は読んでいませんでした。今日勇気を持って全文読みました。涙が止まりませんでした。父親(継父)と母親には今でも怒りが湧きますが、別の角度からも考えます。この子は、我々が殺したのです。私が殺したのであり、あなたが殺したのです。

この記事から時系列を整理すると以下のようになります。

 

  • 2013年~2016年頃 継父・母親 交際開始。結婚後、女児を含めて3人で同居。
  • 2016年12月 香川県児童相談所 女児を一時保護
  • 2016年12月~2017年3月前後 香川県警 継父を書類送検(傷害の疑い)
  • 2017年2月 一時保護を解除 自宅に戻る
  • 2017年3月 香川県児童相談所 女児を一時保護
  • 2017年7月 一時保護を解除 自宅に戻る
  • 2017年8月 8月までに女児は家に戻る。香川県のある医師が児童相談所に連絡(体にあざがあるの見つけた)。児童相談所は、家庭訪問や両親と面接をした。虐待の問題に詳しい専門の病院を紹介した。母親はその病院に女児と数か月通院していた。
  • 2017年12月 継父 東京・目黒に転勤
  • 2018年1月 母親・女児 目黒に引越し、同居開始。このとき母親は児童相談所に転居先を知らせることを拒否した。児童相談所は善通寺市と連携し、転居先を確認。品川の児童相談所に資料を送る。
  • 2018年2月 継父 逮捕・起訴(顔を殴るなどして大けがをさせた)。品川の児童相談所が訪問。母親から「関わってほしくない」と言われる。2度訪問したがいずれも女児には会えず。
  • 2018年3月 女児死亡 継父・母親逮捕(保護責任者遺棄致死)

 

児童相談所、警察、病院が関与していますが、それぞれその都度適切な対応をとっているように見えるのです。もちろん「もっとできたことがあるのでは」という思いがないことはないですが、それはこういう結果になったから吐ける言葉であって、現場の方々は出来る限りのことをしたのだろうと思うようにします。

それに対してあなたは、我々は、何をしていたでしょうか。正確には分かりませんが、2016年1月から虐待されていたとしましょう。この子は当時3歳くらいでしょう。3歳の子が虐待されている間、2016年1月から2018年3月の間、何をしていたでしょうか。子どもたちに対して、幸せに、健やかに育ってほしいと願ったことはありますか。自分の子どもだけじゃありませんよ。兄弟親せきの子、街で見かけた子、テレビで見かけた子、子どもという存在全てに対してです。そしてその子どもたちが「幸せに、健やかに」育つように、何か具体的な行動をしましたか。自分だけ、あるいは自分の周りの大人だけのことばかり考えていませんでしたか。私は胸を張ってNoとは言えません。ついつい自分の利益や都合で考えたり行動したりしてしまいます。子どもというものは無条件に愛され、幸福を願われるべき存在なのに、そのような存在として扱うべきだという意識が我々大人には欠けがちだということを忘れてはなりません。

 

(追記)

下記記事を受けて上記時系列を一部修正(赤字)。

headlines.yahoo.co.jp

 

専門家として解説している後藤啓二さんという方は、元警察庁で現弁護士、「Think Kids」というNPO法人の代表を務めるなどして児童虐待問題に対して法律・行政・政治の観点から取り組んでおられる方のようです。

www.thinkkids.jp

 

この方の主張は「児童相談所が悪い」に集約されます。その改善のための働きかけもしているのに一向に改善されない、改善できるに決まっているのに、ということです。この問題にずっと取り組んでこられた方の意見ですから、相応の重みを持って耳を傾ける必要があると思います。

他方で、自分としてはやはりもっと当事者意識を持つ必要がある問題だと再認識しました。周りの大人たちはどう対応すれば良いか、という質問について後藤弁護士は以下のように述べています。

 

やはり虐待に気づいたら通報するということなんですけれども、今回の事件でも近所の方は何度も通報しているんですよね。それを全く活かせない児童相談所、ここに最大の責任があると思うんですね。住民の通報を児童相談所が抱え込むことによって死蔵されているんですね。活かされていない。要するに児童虐待は一つの機関だけで対応できるほど甘いものではない。それを肝心の児童相談所が感じていない。私は周囲の方は今回非常に良く反応していただいたのではないかと思うんですけどね。

 

強調したように、これは社会の問題だと思います。ここで、「社会」という言葉を「私たち自身」と置き換えないといけない。何を言っているんだと思われるかもしれませんが、自分が社会を作っている、子どもたちの幸福に責任を負っている、そういう意識を持ち続けないといけません。後藤弁護士はこの問題を突き詰めて考えた上で、児童相談所にその根源を見出しているのだと思いますが、私はその児童相談所を追求する段階にないので、まずはこのような問題意識を持つことから始めようと思います。

 

今後も追記するかもしれませんが、当面この記事のタイトルはNhkのタイトルをそのまま拝借しておきます。この一文だけで、忘れがちな問題意識を取り戻せるからです。

 

冒頭のNhkの記事についてブコメに目を通し、分類してみました。感情的なコメント、何かすべきだがどうしたら良いか分からないというコメント、こうすべきだというコメント、諦めや傍観的なコメント、その他の5分類です。重複も一部あります。基準は主観です。読みながら共感して感情的になりながら分類したので意味のないグラフかもしれませんが、この中から「こうすべき」というコメントについて、改めて整理して考えてみようと思って作業しているところです。

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