楽しいムーミン一家 ニンニの物語から考える虐待 (第9話 姿の見えないお友達 / 第10話 笑顔がもどったニンニ

物心ついた頃から「楽しいムーミン一家」を観て育ちました。学生時代にふとしたきっかけで再度観る機会があり、両親は素晴らしい作品を見せてくれていたのだなと感じ入ったのを覚えています。先日また観直す機会があったので改めて感想を記します。
 
この連続する2話では、「皮肉屋の叔母さんに育てられて姿が見えなくなってしまった」女の子、ニンニが登場します。これは虐待によって傷を負った子どもが回復していく物語であるということを、今更ながら発見しました。幼少期はもちろん、学生時代に観たときはそのような問題意識がなかったのでしょう。
 
「皮肉」というマルトリートメントと、「姿が見えない」という傷の負い方
ニンニをムーミン家に連れて来るのはトゥーティッキです。トゥーティッキの位置づけはちょっと良く分かりません。それほど重要ではないのでしょう。その叔母さんと何らかの親交がある善良な市民、とでもしておきましょう。ことの次第を皆に説明すると、「皮肉って何?」とムーミンから質問されます。
 
トゥーティッキ「例えばムーミンが遊んでいて花瓶を割ってしまったら、ママはどうする?」
ムーミン「そりゃ怒られるさ。次は気をつけなさいとかなんとか」
トゥーティッキ「そうね、それが当たり前ね。でもその叔母さんはこう言うの。『ダンスが下手だからって、花瓶に当たることはないじゃない』って」
ムーミン「なんてイヤな言い方なんだ!」

  

なんてイヤな言い方なんでしょうね。表現が柔らかいので(特に子どもは)そう感じます。子育てをしている今、この言葉は暴力だということが分かります。「ダンスが下手だ」という烙印を親に押されることがどんなに彼女にとって嫌なことか。しかも「花瓶を割った」という、ただでさえ自分が悪いことをしてしまって落ち込んでいるときに、その言葉を浴びせられるのです。反撃の余地がありません。花瓶を割ってしまったダメな自分、しかもダンスが下手な自分。二重の自己否定を食らうわけです。これはマルトリートメントの一形態です。マルトリートメントというのは広義の虐待を指す言葉で、最近、子どもの脳を傷つける親たち (NHK出版新書 523) | 友田 明美という本で知りました。
会話は続きます。
 
ミイ「それで、ニンニはその叔母さんに嚙みついてやったの?」
トゥーティッキ「いいえ。でも段々姿が見えなくなってしまったの。声もよ。」

 

ミイのボケ的な質問でシリアスになりすぎないようにされていますが、相当に重いシーンだと感じました。子どもの内面から発せられるあの輝かしい光が徐々に弱々しくなり、最後に消えてしまう、そんなイメージが浮かびます。また「消える」という言葉は、「死」すらも想起させます。

 
少しずつ、回復へ 
そのうちドアが空き、ニンニが入ってきます。ここでは宙に浮いた「鈴」しか見えません。皆は優しく迎え入れます。寝床へ連れて行くママが本当に優しい。「果物とジュースはここに置いておくわね。いつでもお食べなさい。」「もう寝るの。早いのね。疲れたものね。」「夜中どうしても寂しくなったら、私を起こしなさい。向かいの部屋にいるわ。枕元でこの鈴を鳴らすと良いわ。」ニンニは首に付けた鈴だけが見える状態で、その揺れ方でyes/noの判断は出来るけど、言葉も発せない。そんな状態でも、ムーミンママは他の子どもと同じように接します。トゥーティッキが「(ニンニを虐めた叔母さんと)正反対だもの」と述べる所以です。
 
翌朝、皆の優しさに触れたからか、靴が見えるようになります。喜ぶ皆。遊びに出かけ、キノコ摘みに興じていると、意地悪でいたずら好きのスティンキーに出くわします。コイツの悪役感、でも憎めないキャラクターはバイキンマン並みに完成されています。「怖くて姿が見えなくなったんだろう。可哀想に、そうなったら一生戻らないぞ」などとニンニを脅し立てます。ムーミン達が反論しながら守ろうとしますが、ニンニの靴はまた見えなくなってしまいます。
意気消沈して家に帰ると、ママが出迎えます。各人の摘んだキノコのカゴを検分し、一通りダメ出しした後で「このカゴは素晴らしいわ。毒キノコもないし、良いキノコだけを、しかも沢山摘んできている。あなたはとても賢くてお行儀が良いのね」とニンニをべた褒めします(本当にキノコ採りが上手なことが、スティンキーと遭遇する前に描写されています)。靴が再び現れ、ワンピースの裾まで見えるようになります。興奮する皆。「可愛い脚なのに地味な服を着るのねぇ」とママがぽつり。
皆が寝静まった夜中、パパが目を覚ますとママのベッドが空です。服を縫い上げているのです。
「もう遅いよ、ママ」パパの声色のなんと優しいこと。
「あぁ楽しかった。久しぶりに女の子の服を作ったわ」声を弾ませるママのなんと嬉しそうなこと。
母さんが夜なべして〜的な自己犠牲の精神ではなく、子どもを思う親の姿の美しさにただ心打たれます。
 
スティンキーという悪意

ママの作ったワンピースとリボンを着て、顔以外はすべて現れ、か細いながら声も出るようになりました。ムーミンたちと森でかくれんぼをして遊びます。このまま回復に向かうかと思いきやスティンキーの再登場。

"Stinky"という言葉の通り、とにかくこいつは嫌な奴なのです。ニンニを言葉巧みにおびき出し、洞穴に突き落として岩で出口を塞いでしまいます。作品を通して色んな回でスティンキーは悪さをしますが、おそらくこの回が最も残酷です。ちょっとやりすぎじゃないか、とさえ思います。一緒に見ていたウチの子どもは半泣きでした。

悲嘆にくれるニンニ。探し回るムーミンたち。洞穴の近くに来る。蚊の鳴くような声で助けを求めるニンニ。それに気づくムーミン。

 

 ニンニ「助けて・・・」

ムーミン「ん?今何か聞こえなかった?」

ニンニ「助けて・・・ムーミン」

ムーミン「助けてって聞こえる。おーい!ニンニ、どこだー!」

ニンニ(ムーミンが近くにいることに気づく)「ムーミン・・・!私はここよ・・・!」

ムーミン「どこだニンニ!声が小さくて聞こえないよ!」

ニンニ「私はここよ・・・!」

ムーミン「もっと大きく!」

ニンニ「私はここよ!」 

 

 

コール&レスポンスの末、とうとうニンニは腹の底から大声で助けを求めることができます。「私・・・こんな大きな声、生まれて初めて出した」と自分でも驚くほど大きな声です。その言葉が「私はここよ!」というのも素晴らしい。否定された自己、消えた姿と声。その状態から世界に向かって「私はここにいる!」と主張できるようになったのです。 無事ムーミンたちに助けられ、ムーミン家に帰るニンニ。まだ顔は見えません。でも、「それでもすごいじゃないか、大きな声も出たし、今度はスティンキーにいじめられても姿が消えることはなかったんだから。もう少しだよ。」とパパが鼓舞します。目に見えた成長だけでなくて、子どもが「できた」ことを認めてあげること。これが子どもには嬉しいし、安心できるんですね。一日たっても顔が見えるようにならなかったことを一番残念がっているのはニンニに決まっているんです。

 

笑顔を取り戻させたもの

皆で浜辺へ遊びに行きます。海を眺めて座っていたニンニがしくしく泣き出します。 

ママ「どうしたの、ニンニ?」

ニンニ「海があまりにも大きいから。」

 

 海があまりにも大きくて泣く、という表現に若干クサさを感じつつも、その次が面白い。今度はママが地平線を見やりながら黄昏ます。 

パパ「どうしたの、ママ?」

ママ「私には海を眺めて感動して泣いたり、心ときめいたりするようなことが随分なくなってしまったわ。」

 

 ボケ役でもあるパパはこれを「ママはドキドキするような体験をしたいらしい。よし、海に突き落としてあげよう」と超解釈します。後ろからそろりそろりと近づいていく。それに気づいたニンニは駆け出し、パパの尻尾に思い切り噛みつきます。

 ニンニ「ママに酷いことをしようなんて、許さない!」 

声を荒げて一喝すると、遂に顔が現れます。正義感と力強さに満ちたその表情には神々しさすら感じられます。顔が見えるようになったことを皆で喜びます。笑顔を取り戻させたのは、他者への愛と、愛する人のために行動する勇気だったのでした。ニンニとママが抱き合うシーンは涙なしには観られません。

 

エピローグ

 

元気になったニンニと会えてトゥーティッキも喜びます。例の叔母さんはまたニンニと住みたいと言っているようで、連れ戻しに来たのでした。ここは大人になった今では不安になるシーンです。また虐待が繰り返されるのではないか。でも、ここでは子どもへのメッセージだけを受け取ることにします。勇気と愛で顔を取り戻せたのだから、もう意地悪な叔母さんなんかには負けないぞ!ということです。それを象徴するように、帰り道で向こうからニヤニヤ歩いてくるスティンキーに向かって思いっきりアッカンベーをして、「フンッ」と去っていくのです。 

 

そうそう、ニンニを洞穴から救い出した後、怒ったムーミンたちはスティンキーを捕まえて洞穴にぶち込むのでした。

ムーミン「ニンニが受けた思いをお前も受けろ!」 

ちょっとやりすぎじゃないか、とここでも思いました。ウチの子も同じように半泣きでした。上で書いたように最後のシーンで何事もなく登場しているのでまあ何とか出られたんだろうということは分かりますが、勧善懲悪・因果応報といったイデオロギーが容赦なく描かれて地上波で放送されていたのはこの時代だからできたのでしょう。今じゃ「スティンキーがかわいそう!」という批判を受けることは想像に難くありません。良し悪しは別として。